
中国人は春節を重んじる傾向にある。
毎年そうなんだが、日本の元旦よりも中国人は春節なんだよな。
だから、毎年初詣とか俺の感覚と嫁の感覚とは違うようで春節の時期は毎年中国に帰っている。
まぁ親戚が多いのは良く解るのだが、俺が中国に行ったとしても誰が親戚なんだかよくわからず、取りあえず集まっているのが親戚なのかどうかを気にしてもしょうがないので、相手が俺をどう思っているかに委ねるしかない。
嫁は俺の事を老公(らくん)とかいって紹介するので皆解っている様だ。
老公と言うのは日本語で言うところの旦那と言う意味らしい
そういう事もあって、俺は中国親派で日本国民だが日本人ではない沖縄人、いわゆる琉球人なのでそもそも俺が7才の時まで沖縄に帰るのにパスポートが必要な歴史もあり、沖縄にはアメリカ軍の基地も沢山あって、そもそもアメリカだった時期も有るわけで、琉球人としてのアイデンティティーは持ち続けるしかないのだが、どうにも京都にいる沖縄人だなんとか言う連中はにわか沖縄人で沖縄ではただの人だ。
ところが玉城(たましろ)家と言うのはちと違って、琉球王国の時代、玉城張勲と言う、大臣がいて、その末裔にあたるのだが、なんの大臣かというと、今の言葉で言うと芸能関係の大臣だったらしい。
そのせいかどうかは良く解ってないが、沖縄に居る叔母、オヤジのねぇさんなんだが、琉球箏曲との師範をやっていて、箏曲、要するに「こと」なんだが、これは日本全国同じ楽器みたいだ。
他に、三線(さんしん)はあるが三味線とは全く異なる楽器で、多くの日本人は沖縄の音楽と言うと三線だけが思い浮かぶと思うのだが、実は、琴があって、三線があって、エイサーがあるのが本式で、どちらかと言うと、叔母が師範やっているだけに、ここは譲れないわけで、エイサーだけやっているとか、三線だけやっているとかはどうにも中途半端な音に聞こえて沖縄の音楽を軽々しく語らないで欲しいと思うのは俺だけだろうな。
だから、言っとき京都沖縄県人会に所属したことはあるのだが、俺から言わせると皆、似非沖縄人で、沖縄に帰っても、沖縄県知事に招かれるような連中は1人としていない。
俺も、叔母だよりだが、沖縄文化の無形文化財にも指定されているわけで、玉城作子と言うのを調べて見ると良いだろう。
ただ、俺も沖縄から離れて久しく、もはや親戚づきあいなどと言うのはオヤジが死んでから無くなってしまい、俺も沖縄に帰るとただの一般琉球人になってしまったな。
まぁそんな俺は三線や琴ではなくトランペットをやっているので大分とかけ離れたわけなので良いか。
オヤジが死んでからは特に沖縄に特化した何かなんてものはどうでも良くなって、日本国民だけど沖縄人と言うアイデンティティーだけが残った感じだな。
なので、琉球王国の流れからすると、当然、その先には中国があるわけで、それも福建省が出てくるし、福建省には沖縄事務所もあるほど交流はある。
しかし、アメリカと言う1人では何も出来ない図体がデカいだけの連中に言い負かされて、日本政府はアメリカの犬と化して久しい。
それと、最も問題なのは、要するに、実体経済と金融経済の2種類を皆理解し切れていない。
俺を含めエンジニアにとって、金融経済は意味をなさない、ゼロからなにかを想像し作り上げる事が出来るのだが、金融経済は他人のふんどしで多額の報酬を得る仕組みで、ユダヤ人が考えた仕組みだ。
日本の資源はすくないわけで、金融ビジネスなら椅子に座ってパソコンを開いてポチポチやればお金を動かすことが出来るので誰でもやっていて、このマネーゲームが上手な奴が金を集める社会に成り果ててしまい、おかしな世の中になっているのだが、誰もそれに気づいていない。
極端な話、仮にお金に価値がなくなったとしよう。
すると、今金のある連中ってどれだけ残る事ができるんだろうな。
これは、金のない俺のひがみも多少あるのだが、中井を見ているとそう思う。
歌も下手、MC上手いのか?、知識はからっきしの馬鹿で周りにほだされてスマップやったみたいな物で、そんなやつ一発で終わっただろ。
頭にある技術力やノウハウ、知恵なんかは何人たりとも盗むことは出来ないが地位や名誉、そして金は一瞬でなくなるのがこの金融経済の仕組みと言う物だ。
フジテレビの社長だろうが、会長だろうが、一瞬でなくなるので、だから、無くなった時場合、何も作り上げる事ができないので悪い事をしてでも残そうと必死なんだな。
これは、政治の世界でも同じで、何も出来ない奴はしがみつくしかないのが金融経済なのだ。
だから、何も無い所から何かを作る知恵と言うのが今後、もっとフォーカスされると良いのだがなぁ
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